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 イレッサ薬害被害者の会

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清水英喜さん(薬害イレッサ訴訟西日本原告団団長)は、2016年3月29日に亡くなられました
清水さんと癌との闘いは長く、2001年9月、右肺に肺ガンがみつかり切除手術を受けたが翌年7月の検査ではリンパ節などに転移ガンが見つかり、次の治療にイレッサが選ばれました。しかし服用直後からすさまじい副作用に見舞われ死の淵をさまようほどの経験をしながらも何とか乗り切られて、以降も、何度となく転移を繰り返し15年間、死との恐怖と闘い続け何とか癌に打ち勝ちたいと頑張って来られたのですが、2016年3月29日亡くなられました。
何とも残念でなりません。享年60歳でした。
ご冥福をお祈りいたします。




ガンなんかに負けない !
イレッサの副作用によって、重篤な間質性の肺障害に見舞われて、一時は意識不明の危篤状態になってしまった・三重県四日市に住む清水さん。・・イレッサについて・ガンについて当時を振り返りながら思いのままに書き綴っていただきます。ご本人の強い意志と負けないと信じて支える家族と、この先も続く闘いの記録です。
<イレッサの副作用被害から奇跡的な生還>
2001年9月,右肺に肺ガンがみつかり,切除手術を受けたが翌年7月の検査ではリンパ節などに転移ガンが見つかる。治療にイレッサが選ばれ,服用始めて一ヶ月後に高熱に見舞われ服用を中止したが高熱はおさまらず,家族に支えられるようにして病院にいくと・両肺とも重い肺炎「間質性肺炎」が進行していることが判明。すぐにステロイドの大量投与の処置を受け,一時は,心肺停止の危機にもなりました。
私たちの会員のお一人で,現在もご夫婦でガンと闘い続けている三重県の男性の記録です。決して挫けることはなく,常に堂々とガンに挑む姿を,ガンと闘い続けている多くの方たちの励みになればと,手記を寄せていただきました。

投稿するにあたって・・・
癌になり・生きたいと願い、闘っても、志半ばでなくなった人達のご冥福をお祈りすると共に、治癒することを信じ共に頑張った家族の皆様にはお悔やみを申し上げます。
三重県四日市市・・清水 英喜
 私は49歳の会社員で肺がん患者です。2年間で2回リンパに転移再発して、2002年10月にイレッサを服用して、副作用を経験しました。現在イレッサによる副作用を経験し、生きている人は少ないと聞き、投稿することにしました。今回投稿するにあたり、私の文章と経験が、今現在がんと闘っている人に元気と希望を、又これから癌と闘う人に少しでも希望を与える事が出来れば幸いと思い、お話を進めたいと思います。

イレッサを使うに至った経緯からお話しします。
私は2001年9月に偶然にも肺がんが発見されました。そして11月5日に右肺上葉摘出手術を受け、99%再発はないとの説明を頂き、ICUで眠りにつきました。おりしもその日は私達夫婦の23回目の結婚記念日でした。その後、退院して会社にも復帰し、2002年2月に検査も異常なく、がんと言うことさえも忘れかけていた5月の検査でリンパへの転移が発見されました。

その時の心臓血管外科の先生は「リンパへ転移してますねー。7センチまで腫れています。このままだと、後・半年くらいの命です。内科呼吸器へ行って下さい」それだけでした。再発など予期していなかった私は顔面蒼白、頭クラクラで内科まで歩きましたが、どの様に歩いたか記憶がありません。内科のT先生に話しを伺い、治療方針を検討しましたが私本人は納得が行かなくて、セカンドオピニオンを求めました。

自分で病院と先生を決めて、紹介状を書いて頂き、名古屋の病院を訪ねました。そこでの診断結果もやはり同じ答えで気落ちしている時にその先生から「この7月に癌細胞だけを狙って攻撃する夢のような薬が認可されます。試したらいかがですか?」と勧められ、パンフレットを頂きました。それが私とイレッサの出会いでした。

地元の病院へ戻り、T先生に結果を報告してから治療方針を決定しました。とりあえず7センチまでリンパが腫れているのだから、放射線を当てながらその後の治療を考えると言う事で入院し放射線治療を開始しました。2002年7月のことです。

9月になり、リンパも4センチまで小さくなった頃先生からお話がありました。「もうすぐ放射線も決められた線量に達するが、その後の治療はどうしますか?」と。説明を受けたのは通常の点滴による抗がん剤の投与か、イレッサと言う薬でした。イレッサは名古屋の病院で聞いていましたが、内容までは詳しく聞いてなかったので聴く事にしました。通常の抗がん剤の副作用は、だいたい知っていましたが、イレッサに関しての説明は、人により個人差はありますが、湿疹・下痢位で人により軽い軽い肺炎になるかもわかりませんと言う事でした。

迷いました。話しを聞くと副作用の少ない安全なイレッサ。もう一方は、吐き気・脱毛・白血球の減少・身体の正常細胞の破壊! 迷いましたが自分の中で答えは出ていたのです。新薬で効果も副作用も未知数のイレッサに賭けようと....。なにより自宅で服用するだけで良い抗がん剤は魅力でした。QOL(クオリティー・オブ・ライフ)生活の質。これを低下させなくて済む!!そう思い、期待と希望を胸にイレッサを一ヵ月分投与して頂き9月11日に退院しました。この先、今まで経験したことのない地獄が待っているとは夢にも思わず・・・。
第一回投稿・2004.11.29)
◇ 果てしなき苦しみに・・・殺してくれ !! 女房に叫んでいました
 2002年9月11日 1ヶ月分のイレッサを手に退院した私は、医師の指示通り二週間後から飲み始める事にしました。退院から二週間の間隔を空けるのは、放射線治療の回復を待つ為です。放射線の治療を受けると、皮膚は日焼けの少し酷い状態になり、赤く腫れ・痒くなります。しかしそれは外見上の事であって、真直ぐ抜ける放射線は体の内部も全て焼いて行きます。私の部位は胸の真中あたりの、縦隔リンパでしたので肺の一部も放射線にやられました。

放射線治療は簡単で楽な治療と思われがちですが、部位によっては辛い治療だと思います。私は気管支を焼かれて、食べる事も話す事も出来ませんでしたので、その回復と体のダルさの回復を二週間待って9月25日マクロファージが癌細胞を食べるのと同じイメージを持って、分子標的剤であるイレッサを飲み始めました。一日一錠。最初の一週間はなんの変化も無し、飲み始めて10日目。湿疹等は無いのですが、下痢が始まりました。下痢は医師から聞いていた症状でしたし、回数も一日4回位でしたので、それほど気にはしていませんでした。

飲み始めて14日目。診察の日がやって来ましたので、病院で胸のCT撮影を行いました。予定通り異常無しと言う言葉を頂き、順調に癌を叩いてくれているのだと信じていました。しかし副作用も予定通り進んでいたみたいです。その頃伯母が亡くなり葬儀に参列したのですが、皆が『お前大丈夫か?座っていなよ』て言葉を言ってきました。私自身は大丈夫のつもりでしたが、廻りの人は異常に気付いたみたいです。私自身気が付いたのは、次の日免許書の更新の為写真を撮った時でした。出来た写真を見て自分の顔とは思えませんでした。病的な顔!その一言!怖くなりましたが、副作用が進行しているとは思いませんでした。

イレッサを飲み始めて三週間を過ぎた10月20日(日曜日)。友達の家からの帰り道に体のダルさを感じ、自宅に戻ってから熱を測りました。退院してからも熱は測っていましたが、いつも平熱で異常無かったのですが、この日は違って37・3度の微熱がありました。寒い日だったので風邪と思い、入浴もしないで早く休みましたが、次の日37・9度迄熱が上がり又激しい下痢になりました。一日25回トイレ!あまりに辛いのでその夜いつもの病院へ行き事情を話し診察して頂きました。担当医ではありませんでしたが、レントゲンを撮り異常なしと医師から説明を受けました。その頃には、私自身もレントゲンやCT等を確認出来る程病気のベテラン?になっていましたので、確認した所綺麗な肺をしていました。月曜の夜の事です。

次の火曜日。やはり熱は下がる気配も無く、解熱剤を使用すると一旦は下がるのですが、すぐ上がって来ます。ゆっくりと確実に平均が高くなって来ました。38・2度位です。その夜、あまりの辛さに癌を発見して頂いた行きつけの開業医の医師に電話をして診察して頂きましたが、放射線治療による傷を体が治している時に出る熱かな?と言う見解で、結局は原因不明で点滴だけで帰りました。10月23日水曜日は担当医による診察の日で、下痢は止まっていたのですが一応これまでの経緯を話し胸のCTを撮りましたが、やはり異常無く綺麗な肺で先生も回復熱ではないか?との事でした。それにしても長く続く38度台の熱と体の倦怠感。しかし先生はイレッサの副作用を疑ったのか、服用を止めて下さいと言われ、次の日曜日10月27日は日直で病院にいるので、悪化する様なら来院して下さいと言われ帰宅しましたが、熱は続いたままでした。

10月24日(木曜日) 熱が少しずつ上がり始め、39度台になってきて解熱剤を入れても下がりにくくなってきました。さすがに体力には自信のあった私も衰弱し始め、ご飯等は熱が37度台に下がった時に少し口にするだけで、ほとんど寝たきり状態でした。女房も何かを察したのか、私を見る目が変わって来て昼間は仕事も手に付かずに心配をしてくれました。

10月25日(金曜日)容態が変わってきました。熱は40度を超えてきましたし、なにより今迄出ていなかった咳が出始めました。まだ激しくはありませんでしたが、風邪の咳とは質の違う 奥底からのむせ返る様な咳でした。呼吸も苦しく、眠る事さえ出来なくなって来ていました。その頃になると、通常は2階で寝ている私も階段を上がる気力も体力も無くなり1階で休んでいました。10月26日(土曜日)熱が解熱剤を入れても下がらなくなってきました。常に40度を超えていて、体を治す為に出ている熱だからと思い頑張って来た私もさすがに気力が無くなり、あまりの苦しさにその日の夜、私は生まれて初めて女房に『頼むから俺を殺して楽にして!!』と言いました。もうその言葉を言うのが精一杯で女房も『そんな事出来る訳がない!!』と言って泣いていました。

苦しい!気が狂うほど苦しい!10月27日(日曜日)私にとっては運命の日がやって来ました。くしくもその日の朝刊に『副作用死39人に。肺がん新薬47症例報告せず』と掲載された まさにその日でした。激しい咳・40度を超える高熱・衰弱した身体。限界でした。いつもの病院の担当医の先生に電話を入れてから女房の運転する車に乗り、病院へ向かいました。
天気の良い日曜日の朝でした。
意識が朦朧とする中で、
澄んだ空気が気持ち良かった...
ただ、それだけを憶えています
(第二回投稿・2004.12.13)
◇ 生と死を見つめて
 10月27日(日曜日)女房の運転する車で病院まで行きましたが、どうやって行ったのか覚えていません。
この日は休日なので救命救急センターで診察が行われました。しかし車から降りても歩く事もできずに車イスで動きましたが、体を少しでも動かすと激しい咳に襲われ車イスに座っているのも苦痛になり、ベットをお願いして横になりました。

暫くして担当の先生がみえてCTとレントゲンを撮影する事になったのですが、女房がイレッサの記事が載っている朝刊を手にして『先生!主人はこの薬の副作用と違うのですか?どうなんですか?』と激しく詰め寄っていました。その頃には呼吸も苦しく動くのはほとんど不可能な状態でした。撮影となり激しく咳込みながら、なんとか撮影しました。みんなから『頑張って』と声を掛けられながら・・苦しい苦しい撮影が終わった後一人でベットに横になってモニターを見つめて撮影結果を待っている時でした。脈拍120・血圧165−92 

その次の瞬間私は川原に立っていました。
幅の広い川!橋もありません!
でも向こう岸に広がるのは丘全体を埋め尽くす綺麗な花、
少し黄色い空に燦々と輝く太陽。鳥や蝶が飛び交い、すばらしく綺麗で穏やかな世界!

それに比べ自分の立っている川原は暗く淋しく殺伐としていました。私は川の向こうの世界へ行きたくて何回もジャンプしましたが飛べませんでした。とその時、脈拍120・血圧165−92とモニターが目に写りました。意味がわかりませんでした。廻りを見たら足元で先生がCTの画像を眺めていました。女房も私が危篤である旨の電話をしに、外へ出ていました。

一瞬の出来事で誰も気づかなかった死!私にとっては5分位だと思いましたが、おそらく一瞬の出来事だったのでしょう。しかしそんな事を考えていた次瞬間また先ほどの川原に立っていました。まったく先ほどと同じ光景・同じ場所。そこでは思考能力が働かず、ただ向こう岸へ渡りたい。その一心でした!2回目は時間的に長く感じ、何回もジャンプを繰り返しましたがどうしても渡る事が出来ず、向こう岸にもこちら側にも誰も居ない世界で もの凄い孤独感と淋しさを感じていました。その時、また現実の世界へ戻りましたが、今回は様子が違っていて 目を明けたその時に飛び込んで来た光景は、救命の看護師さんが私の手を握ってボロボロと泣いている光景でした。私は意味が理解出来ずに思わず『お前なんで泣いてるの?』て声をかけた途端『ワッ!』と驚かれ、私の方が驚きました。その時外から戻って来た女房が『お父さん、何看護師さん泣かしてるの?』て訳の分からない事を言っていました。何があったのか?何が起こったのかサッパリわかりませんでしたが、その後考えるとあれが臨死体験だったのかと思いましたが、高熱の為意識が朦朧としていたので夢だったのかもわかりません。

今となっては・・・ともあれ生き返った?私はストレッチャーに乗せられたまま病棟の方へ運ばれました。何回も入院している私は、看護師さん達とも仲が良かったので、元気に?入院する予定がストレッチャーで運ばれて来たのでかなり驚いていました。のちに聞いた事ですが、あの時の私を見て手当てしていた看護師さんは、もうダメだと思ったそうです。病室へ入った私は、先生も看護師さんも機敏に動く姿を妙に冷静な目で見ていたのを覚えています。ストレッチャーからベッドへ移され、解熱剤を入れられて左腕に点滴を打たれました。その時先生が女房に話していました。『肺の炎症が進むのが早いか、ステロイドが効くのが早いか それによっては覚悟して下さい』と。その時初めて私はこのまま死ぬのかな?と思いながら意識を失いました。

日曜日のお昼頃の事です。多量の汗でベトベトになり、気持ち悪くて目が覚めました。
あ〜まだ生きているんだな〜 と思いながら女房に『汗をかいたから体を拭いて着替えたい』と言いましたが、そこで気が付きました。体は熱が37度台まで下がっていたので、一週間振り位にかなり楽に感じましたが、呼吸が苦しい!息が出来ない!当然酸素は入っていましたが足りないと言う感じで、少しでも動けば息が出来ず、話す事も出来ない状態でした。

先生に言って酸素を5gに増やしてもらって少し楽になりましたが、病室のトイレへ行くのにチューブの長さが足りなく酸素を外して行ったら呼吸が出来ず倒れてしまいました。なんと情けない!自分じゃ無いみたい!自分を責めても仕方ないけど、改めて死と隣合わせの所に居たのだと感じさせられました。

10月29日(火曜日)この日は同じ右の肺ガンで死亡した私の母の命日です。私も母と同じ道を歩む所でしたが、何故か生き残りました。この境目は何処にあるのでしょう?生きたいと願う気持ちは同じはずなのに?年齢?運命?どれも正解かもわかりません! 命日を迎えた日にこんな事を自問自答していました。ガン患者(私)は毎日が自問自答です。なぜ私がガンになったのか?から始まり、これでいいのか?いや!違う!こんな日々の繰り返しです。

ちょっとしたテレビの言葉に励まされたり・感動したり・泣いたり・・・その反面病院や自殺の話しを聞くと、ひどく落ち込んだり・・ガン患者の精神状態はかなり不安定です。
私も鬱病になったりもしました。気が狂いそうにもなりました。電車に飛び込みそうにもなりました。でも いつも思い留めてくれたのは私より先に天国へ旅立った友達でした。家族を思い、生きたいと願い、懸命に闘ったけど亡くなった友達の事を考えると自分で自分の命を絶つなんてとんでもない話しです。命を大切にして、懸命に闘わなくては天国へ行って会わす顔が無い!『闘わずに何しに来たの?』て言われて三途の川から戻されたのかも知れません。

母の命日にそんな事を病室でぼんやりと考えていました。


しかし現実に戻るとイレッサと言う薬の副作用!こればかりは自分の戦うぞ!と言う意思とは関係の無い所で起こり勝手に進んで行く。自分で選択したり出来ない怖さを嫌と言う程知らされました。今迄あまり馴染まない言葉『薬害・副作用』!イレッサによってもたらされた薬害。そしてそれを治す為に使用されたステロイド。

イレッサの危機から脱した私はこの後ステロイドの副作用を嫌と言う程知る事になるのです・・・
(第三回投稿 2004-12-28)
◇ ステロイド投与
 ステロイドと言う薬の名前だけは知っていましたが、副作用等思いもよりませんでした。
良く湿疹が出来た時にステロイド系の薬を使いますねと言われる程度の知識しかありませんでしたが、今回イレッサの副作用で間質性肺炎を患って初めて炎症を抑えるにはこれしかないと知りました。病室へ移ってからの点滴によるステロイドの量はどれ位だったのでしょうか、今はわかりませんが、多量としか言い様がありません。

10月27日に入院して、翌28日先生から『イレッサの副作用と思われる』と説明がありました。正直、副作用として最悪肺炎を起こすかも知れないとしか説明を受けていなかったので、イレッサの副作用は無いかも知れないと考えていた私が馬鹿でした。通常の肺炎とは異なり、間質性肺炎は進行も早く、治りにくく、難病指定もされています。
そんな怖さは後になってから、ゆっくり・大きく心理的に影響を与えますが、今はステロイドによるムクミの方が心配でした。1日3キロづつ増加する体重。入院時64キロの体重が5日間で78キロまで増えて行き、水膨れ状態です。

間質性肺炎で酸素を吸引していましたが、水膨れで尚更胸が圧迫されて、上を向いて寝る事が出来ない状態です。ベッドを起こしている時は良いのですが、ベッドを倒して行くと足の方から胸の方へ体中の水が音を立ててザーと流れて来ます。そうすると胸を圧迫して呼吸がかなり苦しくなります。これは決して大げさな話しではありません。本当に音がするのです。

11月1日 あまりの胸の苦しさとムクミにとうとう我慢出来ず、先生と相談して離尿剤を飲み始めました。
これが又良く効く薬で、通常成人男子の総尿量は約2リットルですが、利尿剤を飲み始めたら一日平均4リットル出始めました。4リットルと言うと凄い回数で行かなければいけないので、眠っている暇も無い位です。おまけに私は、一日に摂取する水分量も500CCと制限されましたので、今度は逆に一日3キロづつ体重が落ち始めました。

水脹れで皮膚が伸びていた私が、痩せ始めたらあちこち皮膚がシワシワになって、老人でもこんな皮膚は無いと言う位酷い状態になって来て、なんか惨めで辛い気持ちになりました。その時薬の状態は、ステロイドの点滴・飲み薬のザンタック・ボルタレンでした。

11月5日 またしても結婚記念日はベッドの上。でもこの日は、シワシワの私でも酸素を外す為に病棟内を久し振りに歩きました。指には酸素測定器を付けて、先生に手を引かれてゆっくりと4階を歩きましたが、なにせ筋力が落ちている為に、フラフラで酔っている様な感じでした。しかし酸素量は低いレベルでしたが問題無かったので、院内を自由に歩く許可は頂きました。嬉しい結果です。又この日、ステロイドの点滴も終わり、替わりにプレドニンと言う薬に変更されました。
点滴の針を常に腕に入れている状態から開放されるのは、凄く嬉しい事で少しずつ快方に向かっているのを実感しました。

しかし午後から心肺機能の測定があったのですが、そこでまた驚きました。肺活量の測定時に『吹いて下さい』と言われて吹こうと思ったのですが、吹くと咳が出て上手く吹けない。肺の摘出手術を受けた後でも4、600あった肺活量が、なんと1,000しか無かった!スポーツをしてきた私にとっては、かなりショックでした。

11月8日 体重が65キロまで落ちて来たので離尿剤を中止して、胸のCTを撮影しました。CTの結果は、まだ肺に間質性肺炎の後が残っている為にプレドニンを止める事は出来ませんでした。ステロイドの投与期間は二週間が限度で、それ以上投与するとその後に副作用が出る可能性があるからです。しかしやっかいなのは、早く投与を止めてしまって、もし肺炎が悪化したら二度とステロイドは効かないと言う点です。ですから先生もプレドニンをゆっくり減らす事しか出来なかったみたいです。

11月12日 あまり鏡を見なかった私が久し振りに朝鏡を見ました。元々ふっくらしている私の顔ですので、水脹れ顔を見るのが嫌で見なっかたのですが、最近顔がツッパルので覗いてみると、なんと目は落ち込み頬はこけて、産まれてからこんな小さく精悍?な顔は見た事が!と言うよりなった事が無く、こんな顔になれる事を初めて知りました。  残念ながら証拠写真は残っていませんが。

この日の夜、担当の先生が突然部屋へ来て、『清水さんの今回の事はイレッサによる薬害ですので報告します。』と言ってかなり詳しくアンケートみたいな質問をされました。
始めて薬害と決定されたら、行き場の無い怒り・抗がん剤としてのイレッサへの失望・この先の治療への不安等がグルグルと頭の中を駆け巡って、その夜病室で気が狂いそうになりました。天井・壁・何もかも白く、色の無い世界に自分1人が取り残された感じがしました。今迄ガンと闘うと言う強い気持ちで来た私が初めて味わった敗北感!

薬害とは自分の意志とは違う所で自分の命を左右される!怖い!こんな気持ち言葉ではうまく表現出来ませんが、戦意喪失と言う感じでした。11月15日そんな気持ちのまま退院する事になりました。
一般の抗がん剤も効かず、イレッサもダメ!今後の治療方針は何も無いまま自宅に帰りました。唯一可能性があるとすれば、副作用を起こしたイレッサが効いていて、身体の中のガン細胞を殺していてくれる事。

抗がん剤は副作用を起こしたら、効いた証と言う事を聞きました。ですからあれ程の副作用を起こしたのだから、ガン細胞は無くなったと信じたかった!しかしそんな僅かな可能性も、かすかな希望も半年後に打ち消される事になるのです。
(第4回投稿 2005-3-16)
◇ 怒りを生にかえて・・・
2002年の11月にイレッサの副作用から退院した私は、あれ程酷い副作用を起こしたのだからガン細胞は消えて無くなったと信じていました。しかし、退院してから新聞やテレビで、イレッサの副作用で死亡する人が日増しに増えていき、いったい何事が起こっているのだろう?と思いながら見ていま
した。

私は単純に、薬には副作用があるのだから仕方が無いと思っていましたが、年が改まった2003年になっても死亡者は増えるばかり。おかしい?何かが起こっている!そう思いながらも、自分の体力を戻し、復職に向けて準備をしていました。

冬の間は、まだ肺炎の心配があったので、静養する様にお医者さんにも言われましたので、ゆっくりして、筋トレとか天気の良い日には散歩とかをして過ごしました。そんなある日、新聞でイレッサを訴え、被害者の会を作り、その代表者の名前が載りました。名前も電話番号も載り、娘さんを亡くしたと書かれていました。事の重大さを知りました。薬害・死亡・国を訴える。でも私自身が訴える事はしませんでした。被害者の会ですから、亡くなった人の遺族しか入れないと思っていたからです。ですから私は代表の方に電話をしました。それがこの会と接点を持つ一番最初の行動です。

電話でお話しして、お悔やみを言い私の状態を話したら、逆に励まされました。それから冬の間休んでいた私は、体力が戻らないまま3月から仕事に復帰しました。その間もイレッサによる副作用で亡くなる人は増え続けていました。5月に入り、仕事をしていた私は首に違和感を覚えました。シャツを着ていても、右側だけうまく体にフィットしていない感じがずっと続いていました。でも、体調も良く体重の減少もありませんし、食欲もありましたから、あまり気にもせず毎日を過ごしていました。

そんなある日、東京の新聞社の方から電話がかかってきて、私の取材をしたいとの事でした。悪い事でもしたかな?と一瞬思いましたが、違ってイレッサの取材をしたいと言って来ました。そこで聞いた話しですが、イレッサを服用して副作用を起こし、元気に仕事をしている人は珍しいとの事でした。電話があってから自宅で取材を受けました。その新聞記事が掲載された6月のある日、私は偶然にも定期検診の日で、朝、病院へ行ったら放射線科の先生が『清水さん今朝の新聞に載っていたよ』て言われまし
た。

検査も終わり結果を待っている時間に、売店でその新聞を買って女房と読んでいました。今迄、新聞には載った事が無い私は不思議な気分で眺めていました。その後に待ち受ける地獄も知らずに。

順番が来て診察室の中へ呼ばれました。転移・再発・余命3ヶ月。それが今回の私の診断結果でした。ショクでした!!イレッサであれ程の苦しい思いをしたのに、また再発。イレッサが効いてなかった。打ちのめされる思いでした。思えばお正月位から服がひっかかってた様な気がします。それから、その場で先生と治療方針について話しをしました。でも行う事は抗がん剤と放射線治療。それしかありませんでした。現代の医療でもガンに対しては3通りの方法しかありません。手術・放射線・抗がん剤。私は転移した右の鎖骨リンパに関して手術は出来ないと聞きました。おまけに抗がん剤も効く確率が殆んど無い事も聞きました。

道は1つ。まず放射線治療を行う。すぐに入院して放射線治療の為の的決めをしました。知っていますか?放射線を行うには、射撃の的とよく似た印を体に書いて、取れない様に黒い・細いテープを貼るのです。治療を始めた私は、余命3ヶ月をどの様に過ごすか考えていました。しかし納得が行かない!今迄ガンには負けないと言う精神力だけの闘いで来たけれど、やはり転移には勝てなかった。ならば今迄してなかった事をしようと思いました。それは代替治療。現代の西洋医学では限界を感じていましたから、他の分野もあるのではないか?僅かな望みかも知れないけど、勉強してみようと思いました。

正直に言えばそれしかなかったのです。それからの私は、放射線治療の間を見ては、本やインターネットでガンや体の事から始めて、漢方・針・灸・整体・免疫学・宗教と幅広く勉強しました。入院して1週間位治療した時、担当の先生と放射線科の先生から抗がん剤の投与を勧められました。しかし、抗がん剤が効く確率は数パーセント!なにより私はイレッサのトラウマがあって、やはり使用には踏み切れませんでした。そうこうするうちに、一冊の本に出会いました。『ガン治療・第四の選択肢』と言う免疫関係の本です。正直、藁をも掴む気持ちの私はその本を読みました。人間の体は自分で自分を治す能力があるのだから、それを高めてやる治療の本でした。その治療に関して、色々な先生に意見を求めました。賛否両論で迷いましたが、退院したらその治療を受ける決心をして横浜のクリニックへ予約を入れ、8月に放射線量60グレイを打ち終わり、腫瘍も1センチまで小さくして退院しました。それからの私は生まれ変わった様に勉強していました。

それで得た結論は、自分の体は自分で治す!体は絶対に冷やさない!泣くより無理にでも笑う!過去は忘れて今日を後悔しない様生きる!それが今回のガンになった私の教訓です。
2003年の8月に退院して、現在2005年6月現在までに私が体の為に行って来た事は、

1・免疫細胞療法 これは自分の血液からリンパ球を取り出して何百倍にも培養して、又体に返すと言うのを繰り返します。2週間周期で3ヶ月間。その間免疫を異常に高くしてガン細胞を攻撃してやろうと言う治療です。今は3ヶ月に1回ですけど。

2・漢方 この漢方薬は、血の巡りを良くして通常体温を上げてやろうと言う薬です。冷えは男性でも良くありません。特にガン細胞は低体温では活発に動く傾向があります。私も通常体温が35度2分位でしたので、上げる努力をしました。

3・水 三重県では有名な植物園の飲み物があります。元々植物用に研究開発された水で、植物の根が腐りにくくするもので、ならば人間も80%近く水分で出来ているのだから、それで改善出来るのではないか?と言うので開発され活性酸素等を取り除きます。

4・信仰 ガンの患者は最後には『神様・仏様』に頼ると言われています。最初、私もそう思いましたが、ただお願いするだけでは治すと言う意味から外れると思い、選んだのは密教でした。今よく言われている陰陽師です。現在は陰陽師と言う職業は無いので密教徒と言います。彼らは自分で自分の体を治す術を使っています。その術を教えてもらって自分で体を治す事をしています。

5・民間療法 よく知られている健康補助食品です。アガリクス・麗芝・サメの肝油等色々ありますが、私が選んで現在も使用しているのは、フコイダンです。モズクの根から採れる成分で、ガンが新生血管を自分で作り、増殖するのを邪魔をする作用があります。以上が現在も続けている事です。どれが効いているのかわかりませんが、最後の転移から2年間異常無しが続いています。ともあれ、医学上は末期ですので、今後も油断はしませんし、勉強も欠かしません。これからも医学は発展すると思います。新しい機械や技術、また新薬も。しかし新薬に関しては、様子を見て使用しないといけないと思います。それが今回の副作用から得た教訓です。

現在イレッサの裁判が行われています。今年の2月に放映された番組で、厚生労働省は600人近く死亡患者がいるのに『今回のイレッサの件に関して、厚生労働省はなんの教訓もありません』と言いました。同じ日本人として、死者に対して後ろ足で砂をかける様な言葉!その言葉を聞いて私も訴える決心をして、現在手続き中です。新しい闘いが始まりますが、厚生労働省・製薬会社 なにより副作用によって大切な人を失った遺族の方に真実を伝える事が、私の仕事だと思いますので、ストレスを溜めずに闘って行きたいと思います。

2005年6月 清水 英喜




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