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 イレッサ薬害被害者の会

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29歳で発病して、一年と少しで苦しみながら亡くなっていった少しちっちゃな女の子の、肺ガンと、イレッサの副作用である間質性肺炎の窒息との闘いの記録です。名前は三津子と言います。発病当初から、病院に恵まれず、医師に恵まれず、制度にもてあそばれ、薬に騙されても弱音を吐かず、辛い抗がん剤の治療に耐え続けながら、もっと生きたいと必死に頑張った女の子です。
この子は皆からミー子と呼ばれていました。
まるで猫の子のようで少し恥ずかしいけど嫌じゃない・・とニコッと笑って、そんな女の子でした。
 ミー子は、中学の二年生で突然母親を動脈瘤という病気で亡くしました。それでも明るさをなくすことなく、たくさんの友達と仲良しの兄と姉に甘え、一生懸命仕事をして、休日になると精一杯遊び、運動が好きで、車の運転が大好きで、父親が作る料理が大好きで、でも・自分の部屋のお掃除はちょっと苦手な子でした。

 私が、娘・三津子の体調に何となくですが違和感を持つようになったのは、はっきりとした月日は覚えていないのですが、確か...、2001年の春頃でした私が、娘・三津子の体調に何となくですが違和感を持つようになったのは、はっきりとした月日は覚えていないのですが、確か...、2001年の春頃でした。
肩凝りがひどいとか、背中の痛み,便秘がなかなか治らないと話していたことや、風邪をひいた感じの咳が続く、目の充血や微熱が続くなどの様子が見られたので娘にはそれとなく注意をし、病院に行ってみるようにと事あるごとに注意をしていました。その頃、本人も身体の不調に気付いて病院に出掛け、診察を受けていたようでした。
 初めの内は市販薬を買って飲んでいたようでした。しかし、なかなか良くならないので病院で診察を受けると・・アレルギーですとの診断で薬を処方して貰って暫く服用。しかし、ここでも一向に良くならないなどで又他の病院に行って診察を受ける。5〜6箇所の病院で診察を受けたようですがいずれの病院でも風邪とか、アレルギーだろうとの診断で投薬を受け服用し続けていました。このように何箇所もの病院で診察を受ける結果となったのには、何れの病院でも血液検査やレントゲンの撮影までして、風邪、アレルギー、疲れが溜まっている、などの診断と薬の処方だったことに、何をどう・・・と説明は出来ないけど何故かすごく不安に感じていたから色んな病院で診察を繰り返し受ける結果になった、と後に娘が話してくれました。
 症状が全く良くならないままに半年以上もの月日が過ぎた2001年9月11日、いつものように仕事に出掛けたのですが余りの身体の痛みと体調の不良に不安を覚え、職場近くの小さな医院に出向いて診察を受け、レントゲン撮影の結果そこの医師より、すぐにこの病院に行くようにと紹介状を頂きその足でG医大に行きました。G医大で簡単な診察を受けて、先生から「検査入院が必要だが空きベットがないので取りあえず関連のO医師会病院で病室の空きがあるのでそちらの方にとりあえずすぐに入院するように」と言われ入院準備の為に一旦帰宅しました。・・ここまでは、入院してから娘本人に聞いた話しも含め、まとめたものです。

 2001年9月11日、お昼頃だったと思います。早退でもしたのかな突然の娘の帰宅に、「どうしたの?」と声を掛けました。娘は、今にも泣き出しそうな不安気一杯の悲しそうな顔をして、「今から入院なの・・・」と唐突な話をしだしました。 

その時の娘の表情から何とも只ならぬ状況であることを感じて、「何でそんな事になるの娘が、何が何だか解らないのに入院、そう思っただけで混乱してしまいつい怒っていました。その時の、悲しそうな、辛そうな泣き出しそうな娘の顔を、今も忘れることが出来ません。
 入院準備を調えて、娘と共にさいたま市北区にあるO医師会病院へと向かいました。受付で来院状況を説明して入院手続きを済ませ、3階の内科病室、6人部屋の窓際のベットに案内されました。ここまで来ると三津子の病気は現実のものであることを納得しなければなりませんでした。2001年9月11日のこの日、アメリカでは同時多発テロがあり、たくさんの犠牲者が出ていたのですが、私の頭の中は娘の病気のことばかりで、ニュースもあまり見ていない状態でした。
 病院での20日間ほどをかけた検査結果が出て説明を聞くことになりました。最悪な結果も予測して父親の私だけで説明を聞くことにして医師の待つ診察室に入ると、重苦しい空気の中で何か言葉を探しているようで話しづらそうな雰囲気の中、医師からの説明は、肺腺ガンでかなり進行している様子、年齢が若いと言うこともあり1年もてば・・・との説明に目の前が真っ白になり、大きく貼り付けられた数枚のX線写真が,まるで悪魔のフィルムのようにも見えて直視することが出来ません。ボタボタと溢れ出る涙、繰り返し続くシャックリと嗚咽は止めようもありませんでした。医師は、本人にすぐに癌告知をして治療を始めましょうと進められたのですが、今すぐにはどうしても告知が出来なくて暫くの猶予を頂き、娘には肺結核の疑いか感染症によるアレルギーの検査を続けていると一時しのぎの説明でその場は誤魔化してしまいました。
 全てをありのままに話して治療しなければならないことは解ってはいましたが、この時はまだ私自身が動転していたことと、事実を話してどこまで娘が耐えられるのかと思うとどうしてもすぐに告知することが出来ません。そんな状態が3日経ち、5日経ち、一週間を過ぎると、当然のことかも知れませんが、告知しないままでは治療も出来ないから退院をして欲しい、との病院側の要望に多少の意見の行き違いなどありましたが居続ける事も出来ずに、すべての検査も終了した入院から一ヶ月ほどで退院をしなければならなくなりました。
 自分の病気が何であるのか、本人は相当に不安に感じていたようでした。親としてはどうしても癌であると話すことが出来ずに、まだ検査をしているからと誤魔化し続けてはいましたが、どこまで納得してくれていたのかは今・知る由もありません。癌によるさまざまな痛みでボルタレンを使用しながら、名ばかりの自宅療養と言う日々の中で、無駄とは知りつつも当時多く販売されていた癌に効果があるといわれていた様々な健康食品を購入しては服用させていましたが...、これはけっして娘の為ではない、自分自身に対しての、何かをやってあげなければ居たたまれないとの偽りにも似た思いで試みていたのかも知れません。
 自宅での娘の生活は、お昼前に起床してのんびりゆっくりと食事を済ませ、その後はテレビを見たり、読書をしたり、夕方になると散歩に出掛けたり、友達とメールなどしながら過ごしていましたが、やはり身体全体を庇っている様子が痛々しくてとても直視できるものではなく辛い毎日でした。それでも週に2〜3回は近くに居る彼氏が訪ねてくれて、車で出掛けたり、食事や映画に連れ出してくれて、この時は娘も楽しそうな様子でした。このような毎日を過ごしている時、自宅近くで週に2回ほど通院して様子を診てもらっている内科医院の先生から、このままでは少しの快方も望めないので思い切って治療をしてみてはどうかと言われ紹介状を書いて頂き、さいたま市内の公立の病院へ娘と行きました。2001年11月28日のことです。
 2001年11月28日、午前10時すぎに受付を済ませて、その後は待ち時間と検査の繰り返しが延々と続き、すべてが終わった時は5時間ほどが過ぎていました。やっと看護師さんの案内で入院病棟へと案内されて、娘が病室に落ち着く頃にはグッタリと気力も尽き果てるほどの長い時間が過ぎていました。病室に入ってすぐに主治医よりガン告知の必要性と治療の説明があり、娘には、父親の私から肺ガンであることを話しました。
 娘は「うん、知ってた。治療したい。」言葉は悲しそうでしたが、はっきりと強い意志を感じました。
娘が抗がん剤治療を受けることを納得してくれたことを主治医に話しをしてすぐに、医師からも娘に専門的な説明が行われて、一回目の抗がん剤の点滴は2001年12月19日でした。ブリプラチン、ビノレルビン、マイトマイシンの3剤併用の点滴投与は、朝から始まって夕方になってもまだ終わらない長い長い抗がん剤投与の始まりでした。治療は基本月に一度のペースで、全8回で終了という投与スケジュール。開始からしばらくは、平気だよと笑いもみせながら余裕の様子も感じていたのですが、2回目の投与から吐き気等の副作用の症状が出始めてその症状は回を重ねる毎に酷くなり、食事もまったく出来ない状態で水すらも飲めません。匂いからも吐き気が来る。などで月の半分以上がこんな状態が続き体力はみるみる低下していきました。
 中でも、白血球の減少には娘も相当に参っていたようでした。減少の数字がはっきりと確認できるだけに数字から来る自分自身の容態が、気力を奪っていったようでした。年明けて2002年の春頃には抜け落ちる頭髪もひどくなり内心では相当にショックだったことと思います。それでもまだニコッと笑って「平気だよ!」っと答えてくれました。抗がん剤の治療を続けていてもあまり効果はなく、むしろ副作用による吐き気から来るさまざまな症状が、体力を奪い気力を失くし続けながらも耐え抜いて予定通りの8回が終了しました。
 この頃から、癌という病気のことをもっと知らなければといろんな情報を集めているときに、インターネットのガンサイトに「画期的新薬ZD1839」とか「世界の治療薬を輸入して使える」といった情報を知り、中でも近々発売の可能性がある「夢のような新薬」というネット情報には、何にも知らなかった自分が情けなくて娘に対してもすまない気持でいっぱいになりました。色んなサイトの癌掲示板にアクセスしては、皆さんの書き込みを見ながら情報を集めている2002年4〜5月頃、書き込みの中に、「がんを撲滅できるかも知れない新薬が開発中で販売も間近のようですよ !!」、という信じられない情報を見つけました。これが、開発名はZD1839と呼ばれるイレッサとうい抗癌剤で、「夢の新薬がいよいよ承認される」との情報には、すぐには信じられないものでこれが"イレッサ"を知る始まりでした。
 2002年4・5月頃になると、・・イレッサと言うすごい薬が近々登場するらしい。発売は意外と早まりりそうだ。承認前にも使用が可能となるようだ。などの書き込みが癌の掲示板を埋め尽くしていました。同時に副作用に関しての事や、効果(奏効率)などの情報も出回って、それらの書き込みの中には、「かなり前から個人輸入して服用しています。」といったことなどがあるのにはまさに目から鱗で驚きでした。驚きの書き込み記事には、「一日一錠を服用するだけで後は普通の生活が出来る、たいした副作用は出ていません。」「私の肺癌の影は殆ど消えました。」、「飲み始めてからめきめきと回復し職場復帰が出来ました。」等々の情報にはとてもすぐには信じることはできない衝撃でした。
この夢のような情報をもっと知りたいとイレッサに関する情報を求めてネットの検索窓に、開発名のZD1839とか、イレッサ・ゲフィチニブなど関連文字を打ち込んではその信憑性について、パソコンが熱暴走するの

2002年3月20日,自宅で過ごしていた時です。
娘・ミー子の運転でドライブに出掛けました。
この時はまだイレッサ服用してません。
ではないかと思うほど連日検索し続けました。新たに購入し接続した外付けのドライブに、「がん撲滅」と名を付けて、数日で多くの情報が外付けドライブを埋めつくしました。
 集めた「夢の新薬」情報をプリントアウトして、娘・三津子と食い入るように読みながらいつしかこの情報は本当かも知れないと思うようになって行きました。娘も・そんな良い薬があるはずないじやない! とは口では言いながら、その顔にはしばらく見せなかった笑みがありました。
このイレッサのことを主治医に話してみたところ、「素晴らしい薬のようですね。」と既にイレッサのことは承知していたみたいで、自費扱いにはなるが申請すれば使用は可能であるということを聞き、それでは1日も早く娘に飲ませてあげたいと早速に使用のお願いをして、一週間ほどたった2002年8月15日、主治医から、今日からイレッサ服用が出来ますと言われ、娘と共に服用の同意書の説明と副作用に関しての注意などを聞いて、娘自ら服用への同意のサインをしました。副作用に関しての説明もありましたが、服用同意書に記載されている注意書きを示しながら、単に風邪薬に書かれている添付文書と同じような簡単な説明で、医師からも、それほどたいした副作用はないと思いますよ、と言った話しで、酷い抗がん剤の副作用に苦しみ続けてきた娘は嬉しそうに医師の話を聞いていました。
 待ちに待ったイレッサの服用です。
 茶褐色で少し大きめの、250mgのイレッサは他の薬と違った、何となく威厳を持った異様な雰囲気を持って、ワンシートが病室の机の上に置かれているさまは、一錠が9000円という値段だけでない何とも言えない威圧的な感覚を感じました。これが大勢の人間の命を奪い続けてきた憎っくき癌を制圧してくれるという薬なのか、娘の体に棲みついた憎っくき癌も、これで退治してくれるのだと思うと誰にと言うことなくありがとう、と大声で叫びたい気持ちでした。病室に来る看護師の中には、この薬は何?と聞かれることもあり、大きな病床数を持ったこのような公立病院でも、このイレッサという薬は使用が始まったばかりで余り浸透していないことが想像できました。
 イレッサの服用は、2002年8月15日から始まって2002年10月2日の緊急入院の日まで毎日、一日一錠を49日間服用し続けました。この間に一度、9月20日の定期の外来診察の時に撮った脳のレントゲン撮影で、疑わしい影が見られるので今のうちに全脳照射をしておきましょうと言われ、自宅でイレッサ服用から一週間目、脳へのレントゲン照射の為に2002年8月21日、再入院となり9月18日までイレッサと脳へのレントゲン照射で一ヵ月を病院で過ごしました。 脳照射20回が終了して、主治医から説明がありましたが、脳転移の疑いの影は消えている事と、レントゲン写真を見る限りでは、素人目にも肺がんの影がかなり縮小しているのが判別できるほどで、先生も、だいぶ効果が出ていますよと言われ、娘も自分のレントゲン写真を見つめながら嬉しそうに説明を聞き、私の顔を見返しながらニッコリと笑った顔のその目は溢れる涙でキラキラと輝いて、娘が病気になって初めてかもと感じるほどの笑み、その笑顔の中には大きな希望と喜びが見えました。
 脳照射終了で9月21日退院してからの自宅での過ごしは、朝起きてから食事後にイレッサを服用して、体調に合わせて外出したり散歩に出たり、姉夫婦が訪ねて来ると食事に出掛けたり、彼氏と車で出掛けたりの日々を過ごしていました。

◇2002年9月8日死亡する一ヶ月前・自宅で食事の支度です◇

 イレッサを服用し始めてからずっと、気を付けて見ていたWebサイトのガン掲示板では、2002年9月の中頃でしたが副作用情報として、グレープフルーツを食べないように等の注意する書き込みがありましたが余り気にしないままに見過ごしていました。

 娘の様子も別段変わりなく、病院からも注意情報などはなく、毎日1錠の服用を続け、20日目、30日目、40日目と服用を重ねる中でも別段に異常を感じるような様子もなかったことから、重篤な副作用など微塵にも考えはしませんでした。
 しかし、後に思い起こしてみれば、服用の30日を過ぎたあたりから、いつもよりは少し息苦しさが出ていたような・・、そんな気がしています。多分熱も出ていたのかも知れません。しかし、緊急入院を言われた前日も彼氏と車で食事に出掛けていることもあり、私が娘の異常を感じるまでには至りませんでした。

 2002年10月3日、この日は月に一度の定期の診察日でした。、娘はいつもより少し早めに起きて身支度を整え、10時前には病院に出掛けました。何時ものように血液検査やレントゲンの撮影など済ませて主治医の診察が始まりましたが、レントゲンを見つめた医師の何かいつもと違う雰囲気に娘も不安気な面持ちでした。その時の主治医の説明は、「少し肺に気になる影がみられるので検査が必要です。今から入院して下さい」と言われ緊急の入院となったのです。

 娘の三津子が緊急の再入院を言われて、家族も当の本人も何が起きたのか全く理解できませんでした。その場ですぐに何故なのかを主治医にたずねた所、「肺に少し気になる影がみられる、結核の可能性も考えられるしカリニ肺炎とも考えられる、検査と様子を見ないと何とも言えないが用心の為に、」との説明で、納得するしかありませんでした。バタバタと慌しげな看護師さんたちの様子にも一層に不安に感じましたが、「呼吸は苦しくないですか? 酸素吸入を準備しますからね。」と言われて、何かが、解らないけど何かが起きているんだ、とは予測がつきました。
しかし、この時点では娘も、只・呆気にとられていると言った感じでしたが、この時はまだ、心配はいりませんよ・・と言う主治医の説明を信じるしかありませんでした。

 イレッサの副作用による間質性の肺障害、この副作用は一時間ごとに、いえ、分刻みで容態が悪化して行きます。この間質性肺炎という副作用は、腫瘍に関わる医師が最も恐れ注意を要する副作用といわれるもので一旦発症するとその半数以上が死亡する怖いものとされています。公表されているイレッサによる死亡被害を見ても、2004年末の発売から僅か1年間で300人近い患者が亡くなっていることから見ても尋常でないことが判ります。副作用が発症した時の主治医の的確な処置と、日頃からの副作用情報に対しての情報収集が、副作用発症患者を救うことになるのでしょうが、それも叶わず副作用の被害に遭った多くの患者が亡くなってしまいました。私たち被害者の会に集まった50数名のほとんどが遺族ということからも、過去に例がない薬害被害であったと言えるのではないでしょうか。

 緊急の入院3日目を過ぎた頃から娘の呼吸が荒くなってきました。酸素吸入がないと苦しそうで一日中酸素マスクが手放せなくなっていましたがそれでもトイレは何とか自分で行く事が出来ました。

食事も酸素マスクを交互にはずしながら摂って体力維持に努めていました。
睡眠が一番困難なようで、横になるとより一層呼吸し難くなるということで、しだいに横になって寝ることが出来なくなって座ったままでしたが身体を少しずらして斜めの姿勢で多少は寝ていたようでした。
しかし,4日目から5日目になると、もうとても自力で少しの動きも困難な状態になってしまい、あまりのひどさに主治医に改善策を尋ねても、依然として「カリニ肺炎か結核菌によるものか検査中でまだ判明できていない」との返事。こんな時、患者とは医師の言うことを信じるしかないのです。
ただ、見守っているしかないのです。

 症状の改善はない、むしろ時間ごとに悪化していく様はまるで地獄図のような有様で、酸素の量を100%上げているのに呼吸が出来ない。もうここまで来ると話すことも食べる事も困難な状態になっていました。

◇2002年9月8日、死亡する一ヶ月前自宅で◇
 少し大きめの個室の部屋中に響くガーガーという酸素を送る音だけが、娘が生き続けている証でした。必死で頑張っているそんなとき、入院から6日目位だったでしょうか、主治医から話しがあり、・・「このまま続けても良くなる見込みは期待できない、一つの選択として薬による方法で患者さんの呼吸の改善を考えてみてはどうか」といった提案・説明がありました。「一瞬・・、えっ!そんな良い方法が有るのなら最初から処方してくれれば良いのに。」と思ったほどです。しかしそんな良い治療がある筈もありません。その方法とは私達にとって信じられないことで、要は・・<薬を注入して眠るような状態にして、苦しんでいる患者を天国に導いてあげるという、癌医療の一環としては許されている呼吸苦の改善いう方法。>、はっきり言えば安楽死なのです。私に説明したのと同じように一緒に呼ばれていた長男夫婦、長女夫婦、彼氏にも説明をして同意を求め、何とか生き続けたいと頑張っている娘には一番の仲良しになった看護師さんから話しをしたようでした。

 この時、この病院では・既にイレッサによる副作用被害の発生を認識していたような節がありました。その根拠は、娘・三津子が亡くなる約1ヵ月前の2002年9月12日、この病院で、イレッサを投与された男性患者(当時59歳)が急性肺障害で亡くなっています。イレッサ服用から僅か2日後のことでした。この時、主治医はイレッサの副作用を疑い、販売元のアストラゼネカ社に、MR(医薬情報担当者=薬についての知識や情報を医師や薬剤師に提供する製薬メーカーの営業担当者)を通じて報告を入れているのです。またその際には、MRからも「イレッサによる副作用死亡が数名出ている」と説明を受けていたことが朝日新聞社の取材で明らかとなっています。

アストラゼネカ社のMRが、主治医に副作用が出ていると伝えた後も、主治医は私たち家族には、副作用に対する危険性についての説明は一切無く、容態の安否や投与の中止等の指示や連絡もまったく行わないままで服用は続けられ、2002年10月3日の緊急の入院以降の呼吸苦についての説明では、イレッサによる間質性肺炎の説明等は微塵も出さずに、感染症もしくは結核とも疑われるのでその検査中であると説明ながら、一方ではモルヒネによる安楽死の提案をし、その承諾を迫っていたのです。・・・後に知り得たことですが、このような呼吸苦の改善なる説明を受けて、真実を知らされることなく亡くなって逝った患者が全国にたくさんいたということで、この被害は単に一つや二つの施設、一人や2人の医師に対してその責任を追及するような簡単な問題では解決できるものではない、医師に対する医療過誤としてではない、薬害事件として訴えた理由がここにあるのです。
 私たち家族も、そして娘の三津子も、頑張れば少しでも良くなると信じて必死で闘っているそんな時の突然のモルヒネ投与による呼吸苦の改善話しに、苦しく喘ぎながら「何 何! ミー子死んじゃうの! 」と娘の三津子が喘ぎながら、振り絞るような叫び声をあげました。当然そのようなことが出来るはずもなく拒否しましたが、三津子にとってはその直後から完全に恐怖が襲いかかってしまい、腕に刺したままになっている点滴用の注射針を、無くなってしまった力を振り絞って引き抜こうと必死になって、「注射針が刺さっていると何かされる、殺される。」と娘は恐怖に感じたようでした。このような惨い話しが出来るものなのか、怒りに体の震えがとまりませんでした。
 この時の娘の症状は、素人目にみても、何らかの処置を行えば改善が可能な状態になるなどとはとても思えないほどの呼吸苦にありました。この症状の原因が何なのか一刻も早くも知りたいと願う患者側の思いとは裏腹に、主治医は既に、イレッサによる間質性の肺炎によるものであることを製薬会社のアストラゼネカ社のMRを通して承知していたにも関わらず、私たち家族には・・結核もしくはカリニ肺炎の可能性がありその検査中・・と説明を偽りながら、回復の見込みがない重篤な呼吸苦の癌患者にたいしては処方が認められているとされているナチュラルコースと呼ばれる処方のモルヒネ投与。
この処方を行うしかない場合に医療側が気を付けなければならない問題は、偽りのない症状の説明が基本であるのは言うまでもありません。しかし、病院側ではイレッサによる間質性の肺炎による死亡被害が出ていることを知っていながら私たち家族には癌の急激な悪化によるものか、結核・もしくはカリニ肺炎の可能性と説明しながら、呼吸苦の改善とするナチュラルコースの処方の同意を求めていました。イレッサによる副作用被害を闇に葬ろうとしていたと思われるような行為です。

 この後、娘は一切の注射・薬を拒否してしまい、入院以来づっとお気に入りで仲良しになった看護師さんへも憎悪を示すようになってしまいました。一人で必死になって癌と向き合って、闘い続けているのに、最期が近づきつつあるそんなときに、全ての人間が信じられなくなるようなことをしなくても・・・、医療とはこれ程までに冷酷なのでしょうか?。これ程までにサイボーグ化されてしまっているのでしょうか。何かを包み隠したいと形振り構わぬ保身の所業としか思えません。

 「どうミー子。痛みはない? 」ベッドに座ったままになって何日も横になることが出来ないでいる娘のベッドの横に腰掛けて耳元に声をかけると、ただニッコリと笑う素振りをみせてくれて、少し頷いてくれます。返事は出来なくても横で話しかけると嬉しそうにして、こんなときは・少し呼吸が楽になっているのかなと自分だけの気休めを感じていました。少し眠るような様子の時でもフッと目を開けては私を探して、声を掛けると安心して目をつむる。 2002年10月3日に緊急入院して12日目、10月15日でした

 主治医からお話しがあるとのことで、お会いしてみると、「新聞はご覧になりましたか?」といきなりで何のことか分りません。「お嬢さんは、イレッサによる間質性の肺炎と思われます。」と言われたのです。まだ新聞記事は見ていませんでしたが、医師の説明によるとイレッサによる重篤な副作用の被害が出ているということは察せられました。「処置の方法は何かないのですか?」と強い口調で問い掛けました、「やってはいるんですが...」良くは覚えていないのですが、医師との会話はこれだけだったような、この後・何を話したのかまったく覚えておりません。早速に数紙の新聞を買い求めて唖然としてしまいました。「イレッサによる副作用で多くの死亡者・緊急安全性情報。」とかが出されて、各医療機関に注意喚起しているとの記事が大きく載っていました。

これまで何度訊ねても苦しみの原因は検査中と回答していたのが、副作用被害が掲載されてしまったのでこれ以上は誤魔化し切れないと私たちに説明したとしか思えない病院側の対応にも、既に怒る気力もありませんでした。

 14日目、ベットの頭部分のパイプ柵を背中にして座ったままの娘は、息遣い・呼吸の荒さはなくなってはいましたが、全身にビッショリと汗をかいて、身体は少し冷たさが出ていました。眠っているような気持よさそうな小さな呼吸をして、どことなく安心しきった安らぎの中でまどろんでいるようでした。もうここまで来ると認めるしかありません。「この子はそろそろ天国に旅たっていくんだ」、ということを。あんなにも苦しみ続けていたのに、今のこの安らかさは、すぐ側まで母親が迎えにきているようで、まるで夢でも見ているような、時間が止まったようなゆらーりとした漂いでした。

 2002年10月17日、午後になると、少し荒かった呼吸も小さくなり、今にも消え入りそうな娘の様子は、それはそれは静かに眠っているようで、小さな息遣いが聞こえるようなそんな時が流れていました。この2〜3日は主治医も余り訪れることもなく、看護師さんも「何かあったら呼んでください。」と、こちらから呼ばなければほとんど訪ねて来ることもありません。

 静かな...、 静かな、・・娘の旅だちの時が刻一刻と近づいていました。
「良く頑張ったね、ミー子・偉かったね。パパのことは心配しなくても良いからね、ママの所に行ってもいいよ。」、小さくなった娘の身体を支えながら娘との最後の話しをしました。声にならない私の話を聞いてくれていたようでしたが、午後4時50分、少し大きめのため息にも似た息をして、娘の身体から何かが抜けて行くような感覚を感じ、ミー子、と耳元で呼びかけるとピクッと反応してくれたのですが・・・、

 安らかに...
 母のいる天国に飛び立って行きました

 平成14年10月17日午後4時55分永眠・享年31歳。

平成15年10月・覚え書きより記




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